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百魔の主/漫画版

創作研究室(カテゴリー別)
葵大和
ライトノベル作家
カドカワBOOKSから『百魔の主』というファンタジー戦記小説を刊行しています(既刊6冊)。またコミカライズ版が秋田書店のweb漫画サイト『マンガクロス』にて連載中です。執筆歴は15年。最近はブログ書いたりもしています。うんち。
出版作品(小説/カドカワBOOKS)

百魔の主/葵大和

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小説における語り手は必ずしも『主人公』でなくても良いって話

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やあ、葵です。(@Aoi_Yamato_100

最近は地の文の書き方自体が自由になってきている気がします。

以前『一人称視点と三人称視点はどっちのほうが書きやすいの?』という記事で説明したとおり、小説の語り口にはおおむね三つの人称設定があります。

  1. 一人称視点
  2. 三人称視点
  3. 三人称単元視点

どれにも長所・短所があるわけですが、この中の一人称視点での書き方について、気づいたことがあります。

それは、

小説における語り手は必ずしも強い動機を持った『主人公』でなくても良い

ということです。

原田マハ氏の書いたエンタメ小説、『総理の夫』を読んでるときに気づいた!

この記事の著者について(葵大和)
葵です
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キャラクター性を際立たせるために動機は必要だが

魅力的なキャラクターの作り方!2つのステップを実例付きで解説でも書いたとおり、魅力的なキャラクター(主人公を含む)に動機は不可欠です。

それ自体はいまだに私の中で確固たる真理としてあります。

一方で、小説の在り方として、必ずしも語り手が主人公でなくても構わない、ということに『総理の夫』を読んで気づきました。

主人公ってそもそもなに?

そもそも主人公とはなにか

具体的な定義については蛇足になるので言葉を重ねませんが、物語を動かしていく主たるキャラクターのことであるとしましょう。

そのキャラクターが動かないかぎり、物語が動かないような最重要キャラクターです。

おおむね、たいていの小説はこうした主たるキャラクターが視点となって物語が進みます。

総理の夫の語り手について

ところが、『総理の夫』の語り手である『相馬日和』は、たしかに視点キャラクターでありながら、みずから物語を動かしていくようなキャラクターではありません。

そもそもこの物語自体が、

『相馬日和』の手記調

で進みます。

なので、本作は、日和の妻であり、総理大臣である『相馬凛子』の行動やその周囲で起こる出来事がメインに描かれます。

つまり、凛子こそが物語を引っ張っていく主人公であるように見えます。

語り手である日和は、そんな凛子が作っていく大きな流れにゆらゆらと力なく流されていくような立場。

一応、妻を支えるという信念はあるんだけどね。

むしろ日和はそんな主人公『凛子』の観察者であり、読者は日和の視点を通して追っていく、そんな流れです。

物語の魅せ方はいろいろある

けっしてオーソドックスであるとは言えませんが、『総理の夫』は本当に楽しめるエンタメ作品です。

しかし、私は基本的に物語を動かすような主人公が視点となる作品を好みます。

というか、世の中にある多くの小説はそういう体裁で書かれます。

なので、『どうしてこの作品はこんなに面白く読めたのだろう?』ということに疑問を持ちました。

で、結果としてストーリーの魅せ方にはもっといろいろな方法がある、という結論に至ったわけです。

ただし、観察者としての語り手は一人称でないと難しい

一方で、『総理の夫』のような物語の魅せ方は、三人称視点では少し難しいと思います。

というのも、三人称はおおむね神の視点からメインとなるキャラクターのいる場所へスポットライトを当て、その動くさまを描写していきます。

仮に本作のように日和のいる場所を中心として物語を見せようとすると、日和がただ周りの状況に振り回されていく様子を描かれるばかりで、あまり面白さを感じません。

そのため、観察者としての語り手は、あくまで『主人公を映す目』としての役割を中心に担うしかありません。

観察者としての語り手に必要な要素は?

また、観察者的語り手の素養として、読む人に共感を抱いてもらう必要があります。

賛同や共感なくして語り手の言葉にじっと耳を傾けられる人はあまりいないでしょう。

そうなると、

読者と同じ価値観を共有できる人柄

というのがやはり重要であると思います。

あるいは我が強くてもぴったりハマれば深く物語を楽しめるかもしれませんが、その分母数は減ります。

語り手は必ずしも物語を動かす主人公でなくても構わない

オーソドックスではないからこそ、『総理の夫』のような魅せ方は簡単にできることではありません。

しかし、

  • 必ずしも主人公が語り手でなくても構わない
  • それでも面白いものは面白い

という事実は、小説の在り方の自由度を証明してくれているようで、ちょっと嬉しくなります。

もちろんほかにもさまざまな文体で描かれるものがあって、それぞれに面白さがあります。

小説作法について勉強していると、ついつい『小説はこうでなければならない』という枠に収めがちになってしまいます。

しかし、昨今のライトノベルもそうですし、『総理の夫』のような一般文芸書においても、さまざまな描き方で面白い物語が作られています。

作法や技術について学ぶのも大切ですが、たまにはこういうちょっと特殊な書かれ方をした面白い小説を読んで、小説の自由度を実感するのも良い経験なのではないでしょうか。

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