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百魔の主/漫画版

創作研究室(カテゴリー別)
葵大和
ライトノベル作家
カドカワBOOKSから『百魔の主』というファンタジー戦記小説を刊行しています(既刊6冊)。またコミカライズ版が秋田書店のweb漫画サイト『マンガクロス』にて連載中です。執筆歴は15年。最近はブログ書いたりもしています。うんち。
出版作品(小説/カドカワBOOKS)

百魔の主/葵大和

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人が演じる実写の映画やドラマに思うこと【表現の幅と俳優の顔】

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やあ、葵です。(@Aoi_Yamato_100

先日、とある俳優さんのインタビュー番組を見ていて、人が演じる実写の映画について創作物として思うことがありました。

実写の映画というのは、人が人として人を表現する作品です。

わたしは小説家として頭の中に存在する『人間』を文字を使って描き出しますが、実写の映画というのは人がその五体を使って『人間』を描き出すわけです。

ここには表現できる幅にまったく違いがあって、勝手に『なるほどなぁ』と納得したことがあったので、その備忘録としてしたためます。

この記事の著者について(葵大和)
葵です
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実写の映画やドラマ作品は人が五体を使って人を表現している

実写の映画やドラマというのは、人が五体を使って人を表現している創作物です。

言い換えれば、その作品内のキャラクターの、ありのままのすべてを表現しているということでもあります。

『ありのまま』というと、『演じる』という言葉と相反する感じがしますが、演じた結果として、『キャラクターとしてのありのまま』を表現できている状態が映画やドラマには求められると思っています。

まさに『なりきる』ということですね。

実写作品とその他の媒体の違い【たとえば小説】

表現される幅が最も広いのが実写作品です。

目に見え、耳に聞こえる範囲が、カットされた時間と空間をのぞき、それ以外のすべてに及ぶためです。

たとえば小説作品の場合、読者が『ありのまま』として受容できる情報は『地の文』に書かれているそのキャラクターの表情や仕草に限定されます。

まあ、逆に言えば表現されていない部分については読者側で補完ができるため、必ずしもそれは欠点ではないのですが、目に見え、耳に聞こえる表現の範囲としてはずいぶん幅が異なります。

試しに次の文章で例を挙げてみましょう。

「あなたのことが好きだ」

さて、このセリフを言った人はどのような顔をしているでしょうか。

もちろん、このセリフを言うに至った経緯(物語)がどんなものかで想像する顔は異なるでしょうが、いろいろな顔があり得ると思います。

明るい恋愛の最終局面においては、優しげな笑みでヒロインに伝えているかもしれません。

これから死地に赴かなければならない戦記のワンシーンであれば、決意を秘めたようなまじめな顔かもしれません。

ヒロインが病で余命いくばくもない状態だったら、もしかしたら目に涙を浮かべ、それでもヒロインを元気づけようと、震えた笑みを浮かべているかもしれません。

いずれにせよ、このあとに『〇〇はこんな顔でそう言った』という『地の文』が続けば、どんな顔であるかが確定します。

しかし、映画においてはそれが言葉ではなく『顔』で表現されるため、その幅には文章で確定される以上の幅が存在します。

どこにどんな皺が寄っていて、どんな口の形をしていて、瞳はどんな揺れ方をしているのか。

文章でいちいちすべて書いていては冗長になってしまうものを、一瞬で、しかも大いなる幅をもって表現することができるわけです。

時間の中に込められる情報の密度の違い

またこのことは、時間単位の中に込められる情報の密度の違いということもできます。

小説においては『読ませる』ことを考えなければならないため、地の文として話者の描写に割ける時間(言葉数)が限られます。

さきほど述べたとおり、あまり長く話者の顔や仕草の描写を地の文で続けても、「もうわかったよ」と読む人がうんざりしてしまっては意味がありません。

その点、映画やドラマなどの実写物に関しては、そのすべてを一瞬に込めることができます。

それどころか、『言葉にならないもの』を『言葉以外』で表現する術まで持っているわけです。

ちなみに実写にかぎらず漫画やアニメなどの絵がある媒体においてもその点は同じ。

アニメなんかでもものすごい表情を描く人いるもんなぁ。

小説畑の人間としてはそういうすごい表現を見るたびに『ずるい!』って思ってる。

とはいえ余地の生み方はどちらにもある

とはいえ、だからといって小説の表現の幅がせまいと言っているわけではありません。

小説の場合は、あえてセリフのあとに続く『地の文』を描かないことで、読者に解釈の余地を与えられます。

そのセリフを言うに至るまでの物語、そのセリフを言った場所、状況、そういった周りのものによって解釈に方向性を持たせつつ、完全には規定しない。

そういうことが文章においてもできます。

無論、映画などにおいてもその人の顔を映さないことだったり、見せ方によって同じような表現ができますので、こういうところはまさに技術なんだな、と思います。

演じている俳優の『顔』が見えてしまう作品が好きではない

わたしは演じている俳優の『顔』が見えてしまう作品があまり好きではありません。

ここで言う顔というのは、顔面という物質的な話ではなくて、言い換えると『我』や『個性』というものですね。

映画やドラマを見ているときに、『ああ、この人だなぁ』という俳優に対する表層的な意識が芽生えてしまった瞬間、少し作品に対する見方が変わってしまいます。

どこまでいってもその人の『我』のようなものが頭の中にへばりついて、作品世界への純粋な観察ができなくなってしまいます。

実際、個人的に『うまいなぁ』と思う俳優さんの芝居というのは、そういうものが芽生えづらい気がします。

『〇〇さんだなぁ』と俳優の名前が思い浮かぶより先に、映画の中のキャラクターとしての認識が先行する、という感じです。

その点で言えば、メディアへの露出が多い『よく知る国民的芸能人』というのは、芝居にかえって悪影響を及ぼす気もするのですが、一方で、そういった立場にある有名な俳優さんなんかでも、見事にキャラクターを演じ切る人がいるので、すごいものだと思います。

外国人俳優の方が入り込みやすいのはそういう理由

一方で、外国人俳優による洋画については、国内映画やドラマよりも作品への没入がしやすい印象があります。

これは前述した俳優の『顔』が見えるかどうかが影響しているのだと思います。

ぶっちゃけ、よっぽど有名でもないかぎり、外国人俳優というのはどんな人なのかよくわかりません。(顔の違いも認識しづらい)

素性においても、顔の造形においても、私にとっては『この世界を生きているどこかの誰か』という程度の認識しかないのです。

そうなると、作品においてその人の『顔』というものは見えにくくなります。(というか見ようと思っても見えない)

だからこそ、演じているキャラクターとしての認識しか芽生えないので、変にキャラクターへの認識が阻害されることもありません。

究極的には毎回見る作品の俳優が全員初見だと良い。

無茶言うな!

逆に洋画は洋画で国内向け(同人種向け)の認識は異なる

しかし、洋画は洋画で、見る人が同じ人種に変われば俳優の顔への認識のしやすさも異なるでしょう。

そういった点では、邦画もまた海外の人たちにとっては作品への没入のしやすさが異なるわけで、それによって評価が変わることもあるんじゃないかな、と思います。

というか、きれいごとではなく、どうしたってそういう要素が潜在的にしろ顕在的にしろ発生してしまうものだと思うのです。

『演じる』ことを生業とする俳優業に関して思うこと

最後に、こうした実写映像作品に出演する俳優さんや女優さんに関して思うことを少し述べておこうと思います。

演じたキャラクター(人間)に、一分の隙すらなく『なりきる』という苦行

すべてが目に見え、声に聞こえる映像作品においては、この『なりきる』ということに一分の隙もあってはなりません。

俳優業というのは、その点でひどくストイックなものなのだと思います。

人間には我(アイデンティティ)というものがあって、そのアイデンティティはどんなに削っても存在してしまうものだとも思います。

映画やドラマにおいても、『なぜそれを演じているのか』、『なぜ自分は今こうしているのか』という根底にある行動意義が、人間の中には潜在的に、そして絶対的に存在してしまう。

おそらく芝居が上手い人というのは、演じている時点において、そういったものを極限まで排除できる人なのだと思いました。

でも、それはなかなか恐ろしいことです。

人間的な苦行といっても差し支えないかもしれません。

ちなみに作家の頭の中はどうなっているのか【複数のキャラクターの同居】

以前に何度か『あなたの頭の中はどうなっているんですか?』と言われたことがあります。

特に、わたしの描く作品は登場人物が多く、いろいろなキャラクターが出てくるため、気になられたのかもしれません。

とはいえ、別に特別な状態になっているわけでもなく、また、必ずしもすべてのキャラクターが超個性的というわけではありませんから、『こういうキャラいるよね』という世間一般的なステレオタイプによって補完されているところも十分にあります。

しかし、それはこの世の中の現実においても言えることで、人は誰しも『こういう人いるよね』と他者をある程度抽象化し、一定の枠に置くものだと思います。

わたしのキャラクターに対する認識も似たようなもので、必ずしも完全な別人格が頭の中にあるわけではありません。

とはいえ、人間がみなそれぞれ違うように、抽象化した上では似たようなものであっても、絶対に同じではありません。

結局、見えている部分に制限があるから抽象化できているわけであって、その人の人生のすべてを知っていたら、必ず差異を認識します。

そして創作者はそういったキャラクターの人生のすべてを知っていて、あるいはそれを新しく作ることができるので、いろいろなキャラクターを描くことができるのだと思います。

過去に向かってその情報を作ることもできるし、経験させることによって未来に作ることもできるのが創作者の強み。

とはいえ、自分で創った情報には責任を持つ必要もあるため、なんでもかんでも自由というわけではありません。

また、結局のところ、その情報を持つ人間が、どういった表情や仕草をするのかというのも作者の人間という生物への理解や認識次第なので、描く者(人間)に対する知見のようなものは、学び続ける必要があるのだと思います。

……。

あ、でも『いろんな人格あるよね』とはよく言われます。

やっぱりそうなのかよ!

人間には多様性がある!(ご都合主義)

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