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百魔の主/漫画版

創作研究室(カテゴリー別)
葵大和
ライトノベル作家
カドカワBOOKSから『百魔の主』というファンタジー戦記小説を刊行しています(既刊6冊)。またコミカライズ版が秋田書店のweb漫画サイト『マンガクロス』にて連載中です。執筆歴は15年。最近はブログ書いたりもしています。うんち。
出版作品(小説/カドカワBOOKS)

百魔の主/葵大和

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詳細プロフィール&人生記

やあ、葵です。(@Aoi_Yamato_100

この記事には葵大和のそこまでは聞いてねえという詳細プロフィールを書いています。

「胸やけしそうだから概略だけでいいわ!」って人はこちらからどうぞ。

人生記みたいなもので至極個人的だし、長いから興味のある人だけ見てね。

幼児期

2回死にかけた

わたしは覚えていないのですが、3歳までに2回死にかけたらしいです。

夜中に救急車で運ばれ、医者に「あと数時間か遅かったら……」みたいなことを言われたとのこと。

何度も言うけどわたしは覚えていない。

「これはまずい」と思って両親はとりあえず肉を食わせた

結果は小学生くらいのときに明らかになる。

そして大学生のときにやっぱり元は虚弱体質なのだということも判明した。(後述)

幼稚園時代

人生初の土下座を経験

クリスマスの時期。

幼稚園に飾ってあったクリスマスツリーの飾りつけを、「きらきら光っててきれい! ほしい!」といってパクる。

この件がバレると保育士さんを通り越して園長先生に呼び出され、そのとき人生初の土下座(DOGEZA)を経験した。

こんなことをしてはいるが基本的には優等生で、人に怒られる経験はあまりなかった。

怒られるのも苦手だった。

でもこのとき叱ってくれて本当によかったと思ってる。

ちなみに友達とよく遊ぶ子どもだった。

小学生時代

ちょっとふっくらした優等生

両親の食育のおかげもあって小学生のころにはちょっとふっくらして体も丈夫になった。

幼稚園児のときから片鱗を見せていた優等生っぷりがここで爆発し、とりあえずテストは全部100点。

でもそのうちこいつは落ちこぼれになる。

まさしく井の中の蛙である。

あ、運動も結構できた。

通信簿、6年連続「協調性が高い」

「思いやりがある」ともずっと書かれてた。

小学生のときも友達と遊ぶのが好きだった。

でも真面目で「良い子ちゃん」だったから、ちょっと不良な友達に憧れたりもしていた。

でも怒られるのはやだからやっぱり良い子ちゃんは続けた。

ともあれ教師からしたら理想的な小学生だったらしく、通信簿にはとにかく良いことしか書かれなかった。

自分自身どういう言動と行動をすれば大人に褒められるかよく知っていたから、そのとおりに行動していた気がする。

たぶん人より少しだけ共感力が高かったんだろう。

小学校でなにか行事があると必ず生徒代表の言葉を任された。

でも待って。

わたし人前に出るのすごい苦手なの。

やがてそれが爆発し、最後の卒業証書授与の生徒代表だけは断った。

今思えばやっとけばよかったと思わないでもない。

近くの小さな塾に通っていた(はじめて創作に触れる)

民家でおばあちゃんおじいちゃんがやってる本当に小さい塾に通っていた。

座敷にみんなで円形に座って、その真ん中におばあちゃん先生が座る。

それぞれ個別に教えてくれる感じで、人数は多くても同じ時間に5、6人くらい。

低学年のときに通っていた。

実はここではじめて創作に触れた。

わたしより年上の生徒が塾の勉強を終えたあと、そこに一台だけあったワープロで小説らしきものを書いていた。

内容は見ていない。

でもちょっとやってみたいと思って家に帰ってから親のワープロで書いてみた。

ちょっとだけ書いてすぐにやめた。

内容は海賊が主人公の物語。

いろんな島に行って冒険するみたいな。

ワンピースかよ!

ちなみに主人公の武器はブーメランだった。

もう一度言う。

ブーメランだった。

あとなんか雷的なものを使ってた気がする。(やっぱ好きだったんだね)

ちなみに本を読むのがマジで嫌いだった

高校時代にとあるファンタジー小説に出会うまで、とにかく本を読むのが嫌いだった。

塾に通っていたときも国語の成績はあまりよくなかった。

数学はよく出来るけど国語はちょっと弱いですねぇ、みたいな感じ。

今と真逆である。

中学生時代

中学受験を経験

そんなこんなで中学生。

親がどうしても私立に行かせたいということで実は中学受験をしていた。

小学校の友達と離れるのが嫌だった本当にマジで私立とか行きたくなかったけど、今思うと良かったと思う。

ありがとうございます。

試験の一週間前に受験を決意した。

とりあえず受かった。

ちなみに当時は受かろうが落ちようがどうでもよかったから合格発表の日は友達の家でゲームをしていた。

親から電話が来て、

親:「受かってたよ」
私:「あ、うん」

みたいなシケた反応だった。

中高一貫校だったので「高校受験なくていいかなぁ」くらいだった。

そんなこんなで入学

まわりの同級生に対する印象は、

「みんな頭いいなぁ……」(ほのぼの)

だった。

試験を受けてくるので当然かもしれない。

親には「あんた今まで勉強できたけど、あそこいったらみんな頭よくてカルチャーショック受けるから!」と言われていた。

でも別にカルチャーショックは受けなかった。

そもそもカルチャーショックってなんだ? 食べれんのか?

学校の成績に執着がないからショックなんて受けようがなかった。(すまんな)

ちなみにその中でわたしの成績は真ん中くらいだった。

教科に関しては数学だけはやたらできた。

社会はやたらできなかった。

今となっては中学レベルから世界史を学び直したいと切実に思っている。

もっと歴史勉強しときゃよかったーっ!

サッカーをはじめる

部活はサッカー部に入った。

このときくらいに「良い子ちゃん」だった自分を変えたいと思っていた。

なんかあれじゃん?

野球部とかサッカー部とかってちょっとイケイケな感じじゃん?

小学生のときからスポーツはだいたいできたが、あえてサッカーを選んだ理由は「カッコいい、ちょっとワルな感じがする」である。

バカである。

でも男子中学生なんてそんなもんだよね?

ともあれここから現在までサッカーに親しむわけである。

とにかく自分を変えたかった

中学生にもなればいろいろあるよね。

サッカーのところでも話したけどこのくらいからわたしは「良い子ちゃん」をやめたかった。

でも自分で言うのもなんだけど性根が「良い子ちゃん」すぎたのでなかなかうまくいかない。

ちょっとワルになりたかったけどそうなると親が悲しんだりなんだりって、考えはじめるとなにもできなかった。

あと人前に出るのが超絶苦手なシャイボーイだったのでそのあたりも変えたいと思っていた。

結論から言うと劇的には変えられなかった。

でも今はいろいろ経験してだいぶマシになったと思う。

今は同僚に「人前に出て話すのが実は苦手で……」と話すと「は? バカにしてんの?」って言われるくらいにはなってる。

あ、言い忘れたけど小学生~中学生くらいまではちょっとふっくらしてるのがコンプレックスでした。

高校生時代

とある小説との出逢い

ここではじめて本格的に創作に目覚める。

前述した小学生時代に、一度だけ小説を書いてみたことはあったが、基本的に読書は嫌い。

読書感想文なんて目次と裏表紙のあらすじだけで書いてた。(逆にすげえな)

ともかく、どうやったらこいつが急に小説書こうとするんだ、みたいな感じ。

きっかけは書店でたまたま手に取ったあるファンタジー小説だった。

表紙に惹かれて手に取って、ちょっと読んで一気にハマった。

これがきっかけで「おれもファンタジー小説書こう」と思った。

ちなみに読んですぐに書こうと思ったわけではなくて、読んで少し経ったあと、なんの前触れもなく「あ、小説書こう」となった。

これが不思議なもんで、本当に唐突な出来事。

今でもよく覚えてるけど、たしか数学の授業のときだった。

窓際の席で、昼時の温かい陽射しが差し込んできていたのを覚えている。

書く、投稿する、読んでもらえる、楽しい

書いたものを誰かに読んでもらいたいという気持ちも最初からあった。

当時はまだスマートフォンはそんなに普及してなかったけど、いわゆる携帯小説は流行ってた。

「もっと本格的なとこないかなぁ……」

って探してたら、当時まだ個人運営のサイトだった『小説家になろう』を発見。

とりあえず投稿した。

このときはじめて投稿したのは「色をモチーフにした魔法が出てくる学園モノ」だった。

色のイメージに即した魔法を使える、みたいな。

黒はなんでも塗りつぶすからそういう魔法を食う魔法、みたいな。

そうだね、中二病だね。

あと現実に存在する色から魔力的なものを引き出して補充するみたいなのもあった。

文章は稚拙だったけどとても楽しかった。

葵大和

学力は平均以下

高校生のときは成績が悪かった。

小学生のときとは違って国語だけはできた。あ、でも現代文だけね。

社会系科目は相変わらずひどい。

進学校だったため早い段階で理系か文系かのコース選択があった。

「とりあえず理系の方が就職多いから~」という周りに流されて理系を取った。

選択は化学と物理。

ぶっちゃけどうでもよかった。

やりたい仕事なんてない。

高校生でやりたい仕事持ってるやつなんて少数派だ(というか大学生でもわたしの周りはそんなもんだった)。

もちろん「これがやりたい!」というのを持ってる人もいて、そういう人は素直にすごいと思った。

浪人生時代

なんとなく自分を見つめた1年間

大学受験に失敗した。

いやわたしは失敗とか思ってないんだけど。

周りのレベルが高かったので難関大学に受からないと失敗、みたいな空気があった。

もうちょっとだけやってみるか、と思って浪人した。

そんな今わたしが思うこと。

マジ両親に感謝。

いやホントマジで。

なので使えるものは使わせていただく。

良くも悪くもしたたかだった。

でもこのとき、「良い子ちゃん」特有の「親の期待に応えなきゃ」という思いと、「本当はそこまで良い大学に行きたいわけじゃない」という本当の気持ちが激しい戦いを繰り広げ、結構ストレスがかかっていた

あとこれは自分が悪いんだけど、さも自分が「ほかのみんなと同じように良い大学に行きたがっている」と誤解されたせいで、わりとキツかった。

いやホント、ちゃんと言えなかった自分が悪いんだけど。

でもそれを言うのは「良い子ちゃん」にはハードルが高い。

そういうもろもろがあったけど、それなりに自分の人生を見直した結果、このあたりから徐々に「これはおれの人生だ。後悔しない生き方をしよう」みたいな方向にシフトしていく。徐々にね。

浪人生時代は勉強以上に小説とマンガを読んでた。

たぶんこのときが一番読んだ(勉強しろ)。

大学生時代

まあ行かなくなるよね

とりあえず大学に入学した。

でもたいした目的もなく入ったんだからそりゃあ講義行かなくなるよね

「一般的な生き方」と「自分のやりたい生き方」の間でさまよってる感じだった。

まあやりたいからってすぐできるわけでもないし、とりあえず「積み上げられるもの積み上げよう」みたいな感じ。

そんなこんなで大学1年の前期の取得単位数、16

後期の取得単位数、驚きの。(卒業に必要な単位は4年間で124単位)

ふふ、独り暮らしは楽しいけど別に勉強はしたくねえ。(ろくでもねえ)

おもしろそうな講義だけちゃんと出席して聞いてた。

ちなみに2年生の前期は驚異の6単位

同期内の「絶対留年するランキング」4年連続1位だった。

おおむねワールドカップが悪い。

なにしてたかといえば

とりあえず大学生時代は小説書いてた。

あとアニメ超見てた。

バイトは特にしてない。

マジ両親に感謝。(何回感謝してるんだこいつ)

でもバイトしてなかったからあんまりお金はなかった。

サークルの合宿とか宿泊費出せないから行かなかった。

でも別に合宿そんな行きたくないし。

サッカーしたいだけだし。

生活費を本買うお金とかに回して、ご飯はもやしだけ生活とかよくやってた。

大学三年生で不治の病が発覚する

そんなこんなで「将来なにするかなー」みたいにほんわかしていた大学三年生。

大学の定期健康診断でお医者さんに、

「……きみ、一回大きな病院に行ったほうがいい。甲状腺が腫れてる」

と言われる。

大きな病院に行く。

精密検査。

結果。

「きみ、もう走っちゃダメね。最悪死ぬからね」

バセドウ病だった。

くわしくはまあ調べてくれ。一応wiki先生を貼っておく。

簡単にいうと体ががんばりすぎちゃう病気。

女の人に多い病気で、目が大きくなるから美人病なんて言われることもあるけど、わたしは見た目にまったく変化が表れなかった。

実は中学生くらいから手に力が入らなかったり、瞬きが多くなるときがあったり、実はいろいろ症状が出てた。

今思うとホントよくサッカーなんてやってられたなと思う。

で、この病気は完治がなくて、いわゆる寛解が限界の状態。(寛解=症状は落ち着いてるけど再発の危険はいつでもある)

まあショックだったよね。

それまでわたしにとってのサッカーって心の支えになってた部分があって、それが一切できなくなるのはまあキツかった。

そんなこんなで治療を開始したわけだけど、さいわいにも比較的すぐに寛解までいった。

半年くらいで「運動してもいいよ」と言われた。救われた。

まあそのあと2回再発してるんだけど。

ともあれ最終的には「まあなっちゃったもんはしかたないか」と思って今は結構動じなくなってる。

うん。

いや再発すればもちろん落ち込むけどさ。

でも、結果的にここで結構吹っ切れた。

「自分の人生だ。やりたいと思うことをないがしろにするのはやめよう」

なにかと心配性(それでいてビビり)だから、一気に行きたい方向へ舵を取ることはできないけど、指針だけは自分のやりたいことへ必ず向けておくことにした。

そう、このときには自分のやりたいことがようやくちょっと見えてきてた

というわけで誰になにを言われてもやりたいことを捨てず、少しずつでもいいからとにかくやり続けることにした。

小説は書き続けた

それまで心の支えだった運動ができなくなって、逆に小説を書くことへの比重が傾いた。

そのあたりのことは別の記事で書いてるから参照してね。

このころになってようやく自分が書く文章も多少は読めるレベルになってきたかな、っていう印象。

かろうじて卒業

同期の中で「絶対留年するランキングNo.1」「教授に毎年呼び出される不良生」だったわたしだけど、3年生と4年生のときにがんばって単位とって留年せずに卒業した。

「奇跡だ」と教授に言われた。

ちなみに医者から「状態が良くなるまで働くな」と言われていた(そういう書類も出された)のでほとんど就職活動はしていなかった。

ということで内定先はない。

でもこのときには「まあ生きてりゃなんとかなるだろ」って感じになってた。

いやまったく焦りがなかったわけじゃないけど。

でもつとめて「生きてりゃなんとかなる」と思うようにしてた。

文学部所属、卒論は「鬼について」

文学部に入って文学評論とか語学研究とかしてたわけなんだけど、最終的に近代文学(江戸時代あたりの洒落本とか)を研究するゼミに入った。

そこの教授はかなり自由に卒業論文の題材を決めさせてくれる人で、民俗学に近い「鬼について」というテーマで卒論の作成をさせてもらった。

ただまあ卒論って作り始めから最終的な発表会(締め切り)までが1年単位であって、生来の「ギリギリまで宿題やらない精神」が発動した結果、ホントぎりぎりまで書き始めなかった。

最終的には完成したんだけど、卒論発表会では教授がわたしを指差して、

「絶対にこの人の真似はしないでください。普通は終わらないですから」

と後輩に言っていた(失敬な)。

卒論は構想を頭の中で練って2週間くらいで書き上げた。

機会があればどこかで見せられるといいな。

このゼミでのいろいろはおもしろかった。

あと教授ってすげえって思った。

今でもたまにゼミの教授に会いに行く。

ニート期間

そりゃあ内定もらってないからね

実家に戻ってほどほどに活動してた。2年くらいかな。

で、その後に就職先が決まったんだけど、同時期にWeb連載していた『百魔の主』の出版が決まった。

思い立って近場の山にフラっと登りに行った帰りのことだった。

あんまり神頼みとかしないんだけど、せっかく登ったからお賽銭なげとこっ、って思って投げた日のこと。ビビるわ。

拾い上げてくれたのは当時の富士見書房の編集さん(現カドカワBOOKS)。

見つけてくれた編集さんには感謝してもしきれない。

本当にありがとうございます。

社会人時代

兼業作家が誕生

というわけでほぼ同時に兼業作家になった。

もちろんもろもろの調整はちゃんとしてる。

就職先は作家業とはまったく関係ない。

ちなみに繁忙期の残業時間が150時間になる。OH,デンジャラス。

まあこれはこれで楽しくないわけではないからいいけど、やっぱり理想はすべての時間をクリエイター業に費やすこと。

なにかを作っていたい。

ということで今も野望に向けてがんばっている。

そんな感じ!